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硬水≠軟水

普段、ほぼ内面の浮力のような部分で付き合っている親という存在が、わたしのエピソードをその口から出して、内側ではない外側にいる他人に向かって語る様子というのは、どうひっくりかえっても気持ちのいいものではない。正月、親戚がやってきて、彼らに父母が1トーン高くして面白おかしく語る、その男女の「子」という人間は、わたしのまったく知らない人間であって、同時にそれはわたしにとって聞き古された、あまりにも知りすぎているストーリーであって、もう何度もなぞられすぎて毛羽立って、既に何も面白い所の残ってないであろう過去の一面を、まだあれだけの音量と覇気をもって昨日見てきたような鮮度で語れる二人が、何だかとんでもなく耄碌したような、逆に全く時が進んでいないような、まだそんなところにいるのか、と苛立ちに近い気持ちになる。どうして「外」に向かっての親というのはあんなに鬱陶しいものなのだろう。――と今、こういう外の場に向かって放つわたしの言葉も、父母にとっては全く知らない居心地の悪い一面なのだろうけれど。

そういえば、よく、世間一般で耳にするのが、付き合っている人がカフェで店員に感じの悪い態度をとった瞬間に幻滅する、という話だけれども、我々は思っているよりも、はるかにハッキリと「内」と「外」という感覚を備えているのかもしれないと思った。たとえば男女や家族のような人数のコミュニティは、普段、それこそ内面どうしの浸透圧の中でやわやわと、さほどの摩擦もなく生きているけれども、そこに「外」というものが発生した時、全身をもって「内」だった存在は、突如その体の内のどこかの部分を「外」にしなければならないわけで、そこには必ず硬水と軟水くらいの、一見しては何も変わらないわりに、とんでもない違いが存在するのだから、この落差にいつでも我々、戸惑ってしまう。

昔少し付き合っていた子に、ぐるぐると同じところを回るだけの関係に疲れて、もうこの関係は続けられないと打ち明けたとき、その子は弱ったなぁという感じでどうにか関係をフォローしようと口を開いて「問題なのは二人きりだからかもね」と、むしろ構造的にも悲しいほど致命的な発言に至って、その過失に気づいてから数秒黙って、ぼそっと彼が「人の中で見てみたいって意味だよ。」と言ったのが、ずっと印象に残っている。あれはまぎれもなく、おそろしいほどの純度をもって、「内」と「外」を人間が自覚している瞬間の発言だったのだなぁ――とか、結局いま、わたしがこうして外に向かって書いていることも、わたしが今この平成30年の元旦を生きているかどうかも知らない彼にとっては全くもって他人の、一体誰の話、という風なのだろう不思議よ。

随筆 エッセイ 日記 2018/1/1

不愛想にくるまれる

その日、いくらか済ます用件があって、それをひとつひとつすましてゆきながら、頭の片隅で探しているものがあった。ブックカバー。水などにも強く、薄手で軽いもの。そういうブックカバーはどこにでも売っていそうで案外売っていないのだ。たいてい意味もなくアメリカの国旗がはいっていたり、秘書のスケジュール帳を思わせる分厚さであったり、ないのなら作るか、と布屋に行ってみるが、耐久性に優れた感じの布はあまりなく、何百の家庭の食卓の上にひかれ、さめた甘い魚の煮物の味がじんわりと染み込んでいるところを想像させる、つるつるの手触りのいわゆるダイニングテーブル用のリバティ柄の布が、巨大な芯に巻き付けられて入り口付近にあって、厚みも質感も良し、こういうのもふざけていてなかなか面白いかな、とちょっと思うわけだが、いかんせんその縦長の筒は鬼のように重いので、全体像をよく見えようとしても見れなかった。こういう場合、店員さんを呼べば見せてもらえるが、店員さんを呼んで手を煩わせたのならば小心者の自分は絶対に買わずには帰れないので、それに1メートルはいらないから、どれくらいの長さが必要か考えて的確にリクエストしなければならなかったし、いろいろ考えると億劫で、とうとう買うのはやめにした。

布屋を出るとき、本を覆うものに柄は必要ない、と心の中の誰かが言う声を聞いた。それが誰なのか探り当ててみようとすると、数秒で、それは最近読んだ社会派の小説の、顔も見たことのない装丁家の発する心の声だと思い当たり、その本の、題字だけを中央におざなりにあしらって、あとは真っ白の背景という装丁が、どうにも投げやりで全く許しがたく、ひそかな抵抗としてカバーを外して読んでいたけれど、読むうち、内容があまりにリアリティでぎっしりというわけで、そうなってくるとむしろ牧歌的なイラストレーションとかいうものは、このさい邪魔にさえなって、文のリアリティに脳を直通させるためには外側の余分な情報をあえて廃す必要があったのだろうか、などと、最初は怠け者と決めていた装丁家の肩を、うっすら持つ気分にさえなっていた。

三省堂のそばを通った時、前回本を買ったときにカードに付けそびれたポイントがあって、それを加算してもらう必要があったことを思い出した。そこで、もしやここならブックカバーもあるやもと思い、本屋に入ってちょっとあたりを見回したが、やはりブックカバーはなかった。店員さんに場所を尋ねた。どうせあまり取扱いがないだろうから、痛いところを突かれたという感じの顔をされるだろうと先に想像していたので、「ありますよ」という答えはいくぶん明朗で自信がみなぎっており、瞬間、爽やかな風が通るかんじがした。ブックカバーのコーナーは、売り場のすみっこの目立たないようなところにあった。その配置的なつつましさとは裏腹に、便箋売り場のような体で、さまざまなサイズのブックカバーが結構なスペースをとって置かれていた。わたしは予想外の大漁ぶりに、うわずった声で礼を言って、コーナーに頭をつっこんだ。そのコーナー自体は、年末になると登場する、おやじくさい手帳の見本市に似た感じで、あの合理性と機能性だけに存在意義を絞った、黒、茶、紺、えんじ、深緑、あたりしか色数がなく、不愛想で、それはまさに本の内容に抵触しない黒子的役割、ああ――まさに、あの装丁に似たものがあるな、と思うのだった。わたしが求めていたのは意外とこういうものだったのかもしれない、と徐々に思い始めて、なんだかそれはあの装丁に感化されたのだとしたらはなはだ癪でもあるけれど、本の主役は本であって、外装ではないんだとか云々言い訳しつつ、不愛想なデザインのいくつかを手に取ってみる。

それにしても、あれだけ街を探して無かったものが、ここには結構な量あって、やはり餅は餅屋。のんびり思ってからじわじわと、自分が程度のひどいバカ者のように思われてきた。本屋はまず手始めに本という商材があって、それに付随するブックカバーがあって、そしてその延長の余力で文房具屋も扱うのだから、本屋にブックカバーがないなんてことは、冷静に考えればまずないにきまっていた。わたしは自分の幸運で本屋に行き当たったわけではなく、いろいろと何も考えずに徘徊して困り切った(テーブルクロスのあの生地で手芸をしようなどと血迷った)末に、分別ある人ならば当然一般的にされるはずの配慮と予想の答えに、たまたま横からぶちあたったというだけなのだった。

結局薄い皮革調の愛想のない黒いおやじ臭満載のブックカバー――¥750の破格。しおり付き――を購入した。 1,500円は出すつもりでいたので、こんな安いのかとちょっと拍子抜けした。差額分で、例のやる気のない装丁家が装丁をしている二冊目の中巻を買おうと検索をかけると、やはり上巻と何も変わらない例のビジュアルが出てきて、おもわず「ひどい装丁だな」と独りごちた。

随筆 エッセイ 日記 2017/12/19

期待外れ

昼間、陽のさす場所は温かく、正面から太陽を見据える一本道などは、ちょっと夏のような眩しさがあり、どっちの目をつぶっても眩しいものは眩しく、時折意図的に電線の影の繰り返しの下に入った。

最初に目的地にしていたパン屋に入ったが、食べたいものが一つも見当たらず、5秒程度で外に出てしまった。変な人と思われたかもしれない。しかし、そこのパン屋は不思議なことに、いつ行っても食べたいものが無かった。そのまま何も考えずに道を進むと、フレッシュネスバーガーがあって、そこの道路の反対車線まであふれる油の匂いをかいだら、それだけで胸やけのするかんじがして、さらにその先に、持ち帰りもできるカフェがあり、看板のメニュー表を自転車から身を乗り出して見てみるも、歯の折れそうなかんじのパンに、アボカドなど、冷たそうな感じの具が挟まって、それで800円という塩梅で、これは温度も固さも値段も、ぴんと来るものがなく、仕方ないので自転車の頭をもと来た方向に向けて、今度は少し離れた駅前の、このあいだ散歩したときに見つけたパン屋を目指したが、あいにく定休日で、狭い道で肩身の狭い思いをしながらどうにか方向転換をして、そして延々と長い道をまた戻って、結局最初のパン屋に戻った。乾燥した風が強く吹くと、髪がめちゃくちゃに乱れて顔にかかり、顔を振って戻そうとするとマフラーの静電気がそれを邪魔し、仕方なく手袋をはめた手で髪を戻そうとすると、一層静電気は強まって、顔周りが不快きわまりない。私は自転車をとめながら「がっかりしないぞ。ほしいものが無くても、なにか一つくらいは食べたいものがあるはずなんだから」と自分に言い聞かせ、がたつく自動ドアのボタンを押した。

しかしパン屋に入ると、やっぱり5秒ほどで回れ右をして帰りたいという気持ちに襲われた。そこにあるもののどれにも自分の歯が食い込む感覚を想像できなかった。じわじわとした虚脱感がやってきて、けれど今ここで帰ったら「お前何しに来たんだ」と店員さんに思われるに違いなく、適当なパンをひとつ選んで、そうして振り向くとレジの脇に食べたいなと思うパンがあったので、それをトングで取ろうとしたら、レジの店員と、隣で会計をしていた女性が、あっ、という声を上げた。えっ、と顔を上げると、入ってきてはいけない第三者が入ってきたような空気がそこにあり、それで、その女性客がレジの店員にちょうどそのパンを袋に詰めるように頼んだのだと知れて、私はあやまって、女性の方は「どうしようかしらねぇ」と言うので、「どうぞどうぞ!」と不気味なほど愛想よく言うと、なぜか右手の中のトングが、ブランと手の中で変な恰好になって、ひどく動揺したような有様になってしまい、その瞬間、わたしはそのパン屋にいることのすべてがいやになった。選んだパンも元に戻して帰りたい気持ちが沸き上がったが、一度選んだものをもとの場所にもどして、しかも帰るなんてことは、小心者の自分にはどだい無理なことで、心がさめざめとした。しかもだからといってすぐに会計して帰ることはできず、もう一人いた老客が会計する間、私はパンと、会計台と、客との間の、微妙に動きづらい位置に、所在なく立っていて、ちょっと首を伸ばしてみると、「お待ちくださいね。順番にお会計するので」と言われてしまう始末で、ますます居づらくなり、「ハイ」というなり、絶対に誰の邪魔にもならなそうな冷蔵庫の脇に身を潜めた。そこでじっと冬眠するように息をひそめていると、冷蔵庫の中に小さな小分けのパックのようなものがあって、そこには、ラタトゥユだとか、豆のサラダだとかそういう類の前菜的なものがコンパクトに並んでおり、一番左側のキノコのマリネは250円で、もう私はやけくそな気分でそれをトレーに乗せた。マリネってどんな味だったっけ? これがすっぱくて甘かったらどうしよう、と会計をしている最中に思ったが、とにかく今はもう早く辞去したかった。前の数客が、新作か何かのパンの一切れを無料で貰っているなか、なぜか私だけは貰えていないことにも気づいていたが、でもそんなことはどうでもいい、早く辞去しよう、と釣銭を受け取ってゆこうとしたら、もう一人の店員――さっき、「あ」と言った店員――が、「お客様!」と言った。そして、試供用のパンをレジ係が私に渡し忘れていることに気づいたようで、結果的にわたしはそれを受け取ることになった。気を使ってくれたのなら、丁寧にお礼を言った方がいい、喜んで見せたほうがいい、と思ったけれども、あんまりここで喜びすぎると、ただでさえも待てない客のように思われているのに、タダでもらえるものには大喜びするなんて、いかにも小物感が際立つなぁと思い、適度に礼を言ってもたもたと貰ったパンをしまっていると、「あ」の店員に、「さきほどは申し訳ございませんでした」と言われて、もう一人店内にいる客がこちらを好奇の目で見るのを肌で感じた。「いいえいえ!」とまた妙に気味の悪い明るい声を出してしまって、わたしはとにかくもうこれ以上何も起きないうちに店を出たい一心で足早に去り、外に出て自転車にまたがり、ゆるゆると発車してから「ふう」とため息をついた。いつ来ても相性がそれほどでもないパン屋だったが、それにしても今日は決定的だった。もう来ないほうがいいかもしれないと胸の内で強く思った。「自分と妙にタイミングの合わない場所」というのは、近寄らないのがかしこいのだ。

家に帰って、パンを食べると、やはりそこまで食べたかったものではなかった。マリネもきっと一口食べてあとは冷蔵庫に残るのだろう。放っておけば父親か誰か食べるだろう、とおざなりに箸をつけたその瞬間、目から火花が散った。自分の感覚が、平素、日常を営業している自らの感覚の3段階くらい上を飛ぶような気がした。さまざまなものが、味覚から嗅覚から脳へ、目へと飛び散って、それは小さいころの記憶にまで行き着いて、鼻から脳天に向かって何かが突き上げ、抜け、そして天高く飛んで行った。わたしは、数秒だまりこんでしまった。

それくらいに、マリネは美味しかった。

随筆 エッセイ 日記 2017/12/17

活字シェルター

かつて書いたように、本屋で立ち尽くすわたしは、読書をしない人間で、正確には本に描かれている世界をえり好みする人間だった。保守、その一言に尽きた。好きなものを一つ見つけたら、それを延々と何度も何度も読み、絶対に冒険なぞしない。だから、読書量というと、へたをすれば本の虫と言われるような小学生よりも読んでいないという有様で、読書と口に出すたびに、裏返しの服で、その背中のタグが丸見えなのを知りながら、見ないふりをしているような気まずさで、うしろめたいような苦しいような、忸怩たる気持で身動きがとれなくなるのだった。だから読書のことはあまり話題にしたくなかった。そのくせ、文章は書くわけだから、これはどうもおかしな話だと思っていた。

そんな矢先、11月。まえに応募した随筆の書評が届いた。そこには幾人かの先生方の書評が挟まっていて、その一番上にあった書評、それの開口一番といったかんじの言葉は、こうだった。

「作者の過去の読書量を想像させる、とても上手な文章でした。」

途端に、鈍く殴られたような気がした。この時ほど、穴に隠れたいと思ったことはなかった。モラルもくそもない、大嘘をついてもまだ平然とした顔でのさばっていられる厚顔さ。自分のやっていることは非常にうまく表面を撫でつけただけの、骨粗鬆症の偽物にすぎない。そういう感覚がじわじわと迫ってきて、それを境に、もう今以前に戻ることは決して許されないのだと、何の根拠もなく、ただ確実に悟った。今までとは決定的に何かを変えてゆかなければならないところに、まぶしいまでの善意の他者の手によって、放り込まれた瞬間だった。

以来、読書というものを始めた。とにかく、骨粗鬆症から逃げるという経緯があったためか、今度こそ私は読書から逃げなかった。いや、逃げるという選択肢すら許されない感じがした。なんせ、わたしをそこに放り込んだのは、悪意でも、損得勘定でもなく、野望でもなく、まぎれもない他者の善意だったからだ。

さて読書だ。はじめてみると、ふと今まで感じたことのないようなやすらぎを得ているような気がした。気のせいかと思っていたが、読めば読むほどにその静けさは存在を増してゆくので、そのうちわたしは、十代から今まで感じていたある機能が、活字を追っているときだけ、停止されていることに気づいた。その機能とは、「いま自分は若い時間を無駄遣いしていないか」という、ちくちく刺すような棘の上に自分を寝そべらせる機能で、いつだって、もうそれは当然のように存在していて、そのいやなノイズは、東京の大気の排気ガス臭のように、生活にべっとりとくっついていた。それが、どうしたことか、活字の畝と目玉の関係の間では、完全に止んでいるのだ。わたしは久しぶりに(それこそ十数年ぶりくらいに)平穏さを手に入れていることに気づいた。それ以降、わたしは自分の発するノイズ機能から逃げるシェルターのように読書という行為を扱った、日々活字をつないで生きる日々が始まった。読む本がなくなる前に補充をして、息継ぎをしてゆく。活字を点滴しているような気分だ。

しかもありがたいことに、そんな、「ノイズから逃げる」なんて不純きわまりない動機をもってしても、本を読むことの恩恵は、読む者に等しく与えられるようだった。

本を読むようになって、少しずつ見えてきたのは、人間は人間が思っているよりもはるかに複雑で、常に動いていて、とどまるところを知らない生き物なのだということだった。人間のありさまが本に描かれているかぎり、そのさだまらなさ、どうしようもなさ、弱さ、それらを丸く許されるかんじがして、どこか救われるような気がした。きっと何らかの心のよりどころとなる信仰をもつ人は、こんな気持ちなのかもしれないと思った。人が何かを信仰したがるのは、結局心のノイズ忘れるためであって、それがたまたま今のわたしにとっては、本だったというだけなのだ。

どんなに面白いと思えない本(ストーリー自体はそうであっても、人間の描写はいつでも面白い。)でも、とにかく一冊読み終わると、それだけで絶対に何かを得るということも知った。水をひたひたに張っている大きな盥に本を一冊落として、その分、器から水があふれる。そういうかんじに、今まで何をしても広がらなかった部分が、じわじわと少しずつ、けれども確実に拡張されてゆく感覚がした。これは今まで自分が生きた中で感じたたことのないタイプの拡張で、同時に今まで自分がいかに狭い世界の中を「世界」と呼んできたのかを知って、恥ずかしいと同時に、これからじわじわとひろがってゆく水面の分も、まだ世界は広がるのだと思うと、ひどく安心した。

わたしの目玉は、今日もシェルターで、活字を補給する。

随筆 日記 エッセイ 2017/12/7

青と蒼

青、というより、蒼。青は海や空を言うときによくて、蒼、はもっと神秘的な森の青を言うときに適しているように思う、そのために草カンムリをかぶっているにちがいないのだ。木々にまきつけられた青い電飾は「青」なのに、それの発する光が夜霧を染める様子は「蒼」なのだった。青は直視できないほどに強く光り、蒼く染められた霧は、夜を切り取ってそこだけが静かな洞窟になったようで、実際にこの青のイルミネーションを、「青の洞窟」という。そういえば、パスタのレトルトのソースにもそんな言葉があったけれども、調べてみるとイタリアのカプリ島というところにある海食洞のことを「青の洞窟」とも言うらしく、なるほど、パスタはそこから来たのだった。

隣に一緒にいた友人が、ふとすっかり忘れていたのを思い出したように、そういえば去年の今ごろ、ここに連れてこられて告白をされた、と言った。そんな重要なことならば覚えていそうだけれども、その言い方は、本当に思い出した、という感じだった。忘れ去られていた電飾とロマンス。忘れ去られていた、だれかの本気。人もまばらなその空間に、青は静かで、静けさの音さえしそうだ。

帰ろうか、とぐるり振り向いて、街の方をみると、青に慣れすぎた目に街はやけに橙色みがかって見えて、「あったかそうな街だね」と隣で白い呼気が言った。

随筆 エッセイ 日記 17/11/14

霧と睫毛

見上げると、物言わぬ灰色の四角は、たゆたう夜の霧になでられてゆきながらも無表情で、放送センターというよりも、むしろ要塞に近い。ばかみたいに大きなアンテナも、何かものすごい軍事兵器のように見える。そこら中、霧がかかって空気が湿っている夜。湿っているので、寒い寒いと天気予報に脅されているほど、寒くはないのだった。

そういえば今日はやけに大きな犬をたくさん見る。昼に、1.5メートルはあるボルゾイがのっしのっしと歩いてゆくのや、1メートルくらいあるダルメシアンと、それと同じくらいの大きさの何やら茶色い犬を見た。ちょっと見ない大きさで、そういえば子供の頃読んだハリー・ポッターの話で、何やら黒い大きい犬が出てきて、ハリーがやけにさわぐ話があったなぁと、夜霧の中自転車をこぎながら思いだす。その描写にも、はっきりとは思い出せないけれど、霧が描かれていたような気がする。霧の中のでかい犬。

霧は、自分の周りにあっても、よほど濃くないかぎりは、見えない。霧は、遠くをさまよっているのを見て、ああ、霧があるな、とわかる。遠視状態。

目をぎゅっとつぶると、いつのまにか睫毛がたっぷりと水分を含んでいたのか、目のまわりが濡れた。そういえば、ある年、真夏のスケートリンクに、ものすごい霧が出た年があって、その年、滑り終えるとたいてい睫毛がおんなじように濡れていた。ぐっ、ぐっ、と目をつぶると、つぶればつぶった分、睫毛から水の粒が押し出され、目の周りを濡らして、泣いてもいないのに、泣いたようになってしまうのだった。そして、気づかぬうちに、霧の水粒の層のなかを乱暴に横切ってきたんだな。と、ぼんやり思うのだった。あの犬たちの柔らかい毛並みも、露で濡れているのだろうか。

随筆 エッセイ 日記 17/11/13

浪費のサーカズム

銀杏で金色に色づく大学のキャンパスを、何遍もぐるぐると歩き回って、隣を歩く人からのとどまるところをしらない質問の合間に、クラブ活動をする大学生たちの、まぶしい青春の輝きが通り過ぎてゆく。グラウンドでタックルをくらわすラグビー部のうめき声、反射性のあるガラスの前に並んで恥じらいなく踊るダンス部、テニス部のかけ声、ボールをうつポカーンという音、アカペラ部がたれこめてくる晩秋の寒さを振り払うように声を絞り出して練習をしている。

「彼らのやっていることはまるで時間の浪費だね」と隣で声がした。

「時間の浪費も、黄金になりうるかもしれない」とわたしは言った。

すると、イギリス人の隣の人は、たしかにね、と言って前にこの話題を友人と話したことがある、と言った。今日の隣人は、わたしの友人リストの中でも、唯一「日常の些末なことを話題にせず、人生についてだけ語る」ということを好む、比較的同類の友人で、とにかく話題がおかしい。四年来くらいの友人だが、そこがおもしろいので、定期的にこうして会合がもたれる。質問ばかりされるので、助かる。答えることは聞くよりも楽だ。友人がトイレに行くとき、重い荷物を目の前にだして、やけに慇懃に「持ってもらうことはできるかな」と聞いて、頷いた(正確には、Noで答えなければならないアレだ)わたしに、それをズシリと預けると「財布をとるなよ」とヘリンボーン柄の冗談をかましてトイレに消えた。わたしたちの今日の行為も、たいがいに「浪費」だ。

「ロボットと人間の違いは、時間を浪費するかしないか」

トイレから戻った友人は言った。私はこれが気に入った。うれしいことだ。極度に無駄を恐れるわたしたちが、わたしたちたるのは、結局「浪費」の部分だという。実に皮肉でオモシロイ。

大学内のカフェにでも入るか、と入ってみると、日曜の営業時間ではラストオーダーがすぎていて、結局追い出された。別に、一杯の熱い物があろうがなかろうが、わたしたちはどちらでもよかった。橙色の電球の屋内から外に出ると、外は急にぐっと暗くなったように見えた。さっきまで点いていなかった銀杏並木を照らす常夜灯が、等間隔に並んで、道を作っている。その後も懲りずに歩き回り、近場で次の約束があるという友人を、その付近まで送り届け、帰路についた。

帰り道、自転車をこぎながら、さっきまで隣にいた友人の顔が、何故か思いだせないのだった。あれだけ話したのになぜか。と思ったが、よく考えればずっと顔を見ずに歩きまわっていたからだった。ただ唯一、鮮明に残っているのは、「財布を取るなよ」と言った声と、その時そばにあったテニスコートの、パコーン、とう音と、銀杏の香りだけだった。

随筆 エッセイ 日記 哲学 17/11/12

秋空

風が強い。真っ青な、抜けるような空に雲が層になっている部分と、そうでない部分がある。強い風が吹くと、青い雲の層が太陽を覆い、空気はひんやりとする。足元には銀杏の葉が黄色く敷き詰められていて、踏みしだかれたものは粉になってアスファルトの上を細かく覆っている。ふとまた強い風がふいて、その黄色の道が、ざああ、とざわめいたかと思うと、道に溜まっていたすべての銀杏の葉が舞い上がり、一瞬、足元が黄色い嵐のようになって、おどろいた私は一瞬目をつぶって立ち止まった。止むまでまって、歩き出す。見たところ、足には何も変化はなかった。雪だったら、靴の中が濡れる高さの吹雪だったから、靴の中にいくらかの黄色い粉末が入ったかもしれない。秋の色。ここ最近、ひどい咳をするクラスメイトがいて、なんだかその人があまりにおそろしい音で咳をするので、それを見てからこっち、冷たい風がふくと、なんだか気管支が痛くかんじられる。

坂のてっぺんまで来ると、天が開けている場所があって、信号がやけに天に映えて、美しい場所がある。わたしはそこを通るときは、空ばかり見ている。わたしが本当に空ばかり見ているので、わたしの顔を見てから、つられるように空を見るひとが、いつも幾らかいる。でも、そのうちのだれもわたしより長くは空を見ていない。この国では、道で、空を見たまま突っ立っている人というのはあまり見ない。いや、どの国ならいるんだろう。いるのかいないのかもわからない。でも、空がきれいなときは、突っ立って、立ち止まっていたい。

空は相変わらず、抜けるように晴れているのに、重なった白身魚の刺身のように分厚い雲が、どこまでも青くひだになっていた。

ふと、その雲間に、目のさめるような真っ白い小さなものがあった。

飛行機だった。結構はっきりと見える。離陸したばかりかもしれない、と思った。それは、何にも負けない小さい鳥のように、真っすぐ真っすぐ、白と青の間を飛んでゆき、そして見えなくなった。強い風が吹いて、すこし喉の奥が、いたむ気がした。

随筆 エッセイ 日記 17/11/11

not still

「君くらいの年齢の1、2年なんて、長い人生で言えばたいして変わらないからね」

自分より5くらい下の女の子がそう言われている現場に居合わせた。ひさしぶりに聞いた。自分も、18-22くらいの間に、全く同じような事を、誰か2、3人の大人に言われた記憶があった。そして、そういう場合私は、必ず「はぁ」とか適当に返事しつつ「いや、この1・2年は死活問題だ。まったく、他人事だと思って適当なことを言う。」と苦々しい思いだったのを思い出す。

つい最近まで、感覚というのは、いつでも「静止画」だった。

何かを「いい」と思ったら、また「こうするべきだ」と思ったら、それが、「永遠に“いい”」に決まっているのだった。

それは、ちょっと独裁国家みたいな、儚いわりに強烈な操作力を持つものであって、存在しないはずの「絶対性」を信じてやまないのだった。絶対、のまま静止画でありつづける感覚というは、完璧な服を着せられて、直立不動を要求されているように窮屈だ。同時に退廃し始めている。なぜなら、人間というのは、潮の流れのように、日々移り変わり、日々成長し、日々生まれ、日々朽ち、移動している「動画」だからだ。それを「静止画」と捉えると、そこには当然矛盾が生じる。人生の中のたった1・2年が、「人生そのもの」になるはずもない。

ここ3年くらいのものづくりでも、最近まで「絶対」に向かって、何かを作ろうとしていた。でも、最近思う。「絶対」なんてものはない。まだ数年しか生きたことがなく、人生はその数年で全部だ、と思っていた子供時代の「静止画」の感覚のまま生きていると、なかなか祖語が生じる。流れてゆく中で、変化してゆく中で、手足を突っ張ることなく、流れに逆らうことなく、その時自分の美しいと思ったものを作り、そして、作ったことを忘れる。幼稚な条件反射で、何かをすぐ「いやだ!」と早計を下すのも、人生を狭くするだけだ。いつか死ぬのだから、何かを「絶対」にするのはやめよう。そう思うと、なんだかとても気楽になって、11月にしては陽気な日差しのちょっとした煌きが黄金のように思えたりする。

随筆 エッセイ 日記 17/11/9

ハロー、やっと追いつきました。

19才のとき、はじめてアルバイトをした。正月の神社の手伝いだった。

お金が欲しかったというよりは、それまで働いたことがなかったので、そろそろ働かなければと思ったのがきっかけだった。小さな神社で、大忙しだったのは1日だけで、2日目は大層ひまで、小春日和の社務所で、まんじゅうやら煎餅やらを勧められるままに食べ、暇をもてあました神主もぶらぶらやって来て、頼んでもいないのに、装束をばっさばっさと揺らして今習っているというキックボクシングを披露してみせたりするのを、石油ストーブの蜃気楼ごしに眺めつつ、強烈に緑色をした緑茶をすする。

そんな仕事の日当は、1万円で、さて意図せず手に入ってしまった報酬をどうするか、となったわけだが「生れてはじめて働いた」という達成感に燃えていた(大した業務でもないのに)わたしは、つまらない微妙な出費で、それがくずされてしまうくらいであれば、1万円札が二枚のうちに何かすっかり記念になるものに交換してしまった方がよろしい、と思い「働くよろこびを忘れないためのリマインダー」と称して、なぜか金のペンダントを買ったのだった。

そのペンダントは、純度がさほど高くはなくとも、一応本物の金だったので、いくら過酷な状況で使ってもメッキのように黒ずんだり、鉄臭くなったりしないため、予想以上にだめにならないのだった。一度チェーンが切れたことがあったが、すぐ直してくれた。そんなものだから、なんやかんや買った日以来、一年の外出日の三分の一以上は私の首元に、それは光っている。

と、同時にわたしはそれの価値を、何とも思っていなかった。

ただ、ここ数日になって不思議な変化があった。首にそれが光っていると、なぜかそれが非常に良いものに見えるのだ。同じアクセサリーの価値が変化することはない。だとしたら私の見方が変化したのだろうか、と思って、しばらく考えていたら、はっとした。何も知らない19才の小娘だった自分が、何の価値も知らずに買ったペンダントの価値に、やっと今、年月を経て、自分の身の丈が追いついた瞬間だった。

大人になるというのは、いいなと思う。おかしな話、金銭を払えば、何歳の人間でも、望むものを手に入れることができる。ただ、その年齢に応じて、その価値に見合う人間なのかどうか、というのはまた別の問題で、だからこそ、自分の価値が持ち物に追いつく、または、合致しているという喜びをはっきりと感じられる瞬間というのは、とてもうれしい。今年になってそれが多い。新しいものを買うよりも、すでにある自分の持ち物の価値に自分が気づき、そして同時に自分がその持ち物の「丈」に追いついた瞬間を味わう――この「再会」が最近のちょっとした喜び。

随筆 エッセイ 哲学 日記 17/11/8