硬水≠軟水
普段、ほぼ内面の浮力のような部分で付き合っている親という存在が、わたしのエピソードをその口から出して、内側ではない外側にいる他人に向かって語る様子というのは、どうひっくりかえっても気持ちのいいものではない。正月、親戚がやってきて、彼らに父母が1トーン高くして面白おかしく語る、その男女の「子」という人間は、わたしのまったく知らない人間であって、同時にそれはわたしにとって聞き古された、あまりにも知りすぎているストーリーであって、もう何度もなぞられすぎて毛羽立って、既に何も面白い所の残ってないであろう過去の一面を、まだあれだけの音量と覇気をもって昨日見てきたような鮮度で語れる二人が、何だかとんでもなく耄碌したような、逆に全く時が進んでいないような、まだそんなところにいるのか、と苛立ちに近い気持ちになる。どうして「外」に向かっての親というのはあんなに鬱陶しいものなのだろう。――と今、こういう外の場に向かって放つわたしの言葉も、父母にとっては全く知らない居心地の悪い一面なのだろうけれど。
そういえば、よく、世間一般で耳にするのが、付き合っている人がカフェで店員に感じの悪い態度をとった瞬間に幻滅する、という話だけれども、我々は思っているよりも、はるかにハッキリと「内」と「外」という感覚を備えているのかもしれないと思った。たとえば男女や家族のような人数のコミュニティは、普段、それこそ内面どうしの浸透圧の中でやわやわと、さほどの摩擦もなく生きているけれども、そこに「外」というものが発生した時、全身をもって「内」だった存在は、突如その体の内のどこかの部分を「外」にしなければならないわけで、そこには必ず硬水と軟水くらいの、一見しては何も変わらないわりに、とんでもない違いが存在するのだから、この落差にいつでも我々、戸惑ってしまう。
昔少し付き合っていた子に、ぐるぐると同じところを回るだけの関係に疲れて、もうこの関係は続けられないと打ち明けたとき、その子は弱ったなぁという感じでどうにか関係をフォローしようと口を開いて「問題なのは二人きりだからかもね」と、むしろ構造的にも悲しいほど致命的な発言に至って、その過失に気づいてから数秒黙って、ぼそっと彼が「人の中で見てみたいって意味だよ。」と言ったのが、ずっと印象に残っている。あれはまぎれもなく、おそろしいほどの純度をもって、「内」と「外」を人間が自覚している瞬間の発言だったのだなぁ――とか、結局いま、わたしがこうして外に向かって書いていることも、わたしが今この平成30年の元旦を生きているかどうかも知らない彼にとっては全くもって他人の、一体誰の話、という風なのだろう不思議よ。